ポケモンSV 対戦に役立つ”言葉”

 よお。俺はつっぱりポケモンハリテヤマだ。

環境の考察がまとまらず気晴らしにこういう記事を書くぜ。読書の秋だしな。早速行くぜ。

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↑お人形遊びをするトレーナー

1.怒りを明日まで持ち越すな

新訳聖書の一句です。怒っている最中にこの言葉を聞くと「うるせえ!○ね!」と言いたくなってしまうのですが、いざ怒りが去った後この言葉を聞くと「ああ。確かにその通りだ。」と素直に思えるのだから人の心は不思議です。ポケモン対戦においては一生懸命考えた構築や作戦が上手くハマらず悲しくなった時、もう寝るしかない場面が1シーズンに一度は必ず訪れます。そんな時こそ上手く気持ちを切り替え、記憶を忘却することが大切です。

 

2.青年の主張は間違っているが、それを主張することは間違っていない

ジンメルという社会学者が「愛の断想:日々の断想」という本でこんなニュアンスのことを言っていました。ジンメルは「世界を通して女性を愛し、女性を通して世界を愛する」とか言いながら普通に不倫をしていたのであまり好きではないのですが、コイツをインテリではなくポケモントレーナーとして考えるとなかなかいい事言ってんなと思うことがあります。ポケモン対戦は奥が深く、知識の累積が力になるゲーム性をしているので、過去作から対戦を続けている上位ユーザーとはどうしても自力に差が生まれてしまいます。無い知恵を振り絞って考えたポケモンが「それ雑魚やん」と一蹴される切なさ、界隈に溢れています。しかし、そういった「間違え」の積み重ねがやがて実力になるはずです。躊躇うな!間違っていいんです。誰もが間違えながら強くなっているのだと思います。

 

3.このバトレボというゲームはクソゲーです

ポケモン実況者のもこうさんが「厨ポケ狩り講座」シリーズでしていた発言で、個人的に印象に残っています。一銭にもならないポケモン対戦を通じて自己実現を図っていた、あの時代の実況者達の放つ言葉には不思議な重みを感じさせます。

真剣にコンテンツに取り組めば取り組む程「これクソじゃん」と真顔になる瞬間があります。虚しさとの戦い。社会生活であろうがランクマ生活であろうが実は同じです。そんな時「いや、ポケモンSVはクソじゃないんだ!私がクソなんだ!クソなのは私だけだ!」と自責的に考えてしまうと、内側にストレスが蓄えられ、やがてゴローニャのように爆発してしまいます。だから声に出してください。ポケモンSVはクソだと。パオジアンの零度から発生する負け筋はクソだと。しょーもないTOD戦略はクソだと。思うがままに、高らかに。でも、対戦相手を批判するのは止めてくださいね。

 

4.自我(アートマン)のみを愛しみ、崇信せよ

インドの経典「ウパニシャッド」で語られている言葉をこういう風に翻訳出来るらしいです。

人間が真実、最後に愛することが出来るのは自分自身だけです。どんな戦いであっても己を信じればいい。ポケモンも同じです。有名強者の分析、ポケモン界隈の流行、確立された構築論。そんなものは信じず、最後には自分で育てたポケモン達で戦えばいい。ポケモンバトルは自我のぶつかり合いです。ところで、アートマンアーゴヨンって似てますよね…!

 

5.全てのことは願うことから始まる

神学者マルティン・ルターの名言…って言われてますけど出典は何処なんですか?

マルティンは神の持つ義=正しさに惹かれ、正しさに相応しい自分になるために過酷な苦行を続けたりしました。しかし、ストイックになればなるほど「神の義」は彼に徹底的に深い罪を突き付けます。神と「私」の間にある断絶は彼を絶望に追い込む。そんな絶望に支配された思考空間のただ中で彷徨い続け、マルティンはようやく「神の義」を捉えました。「神の義」は信仰にあるものを正しいものとする「神の恵み」だったのだと。一人の男と恵みの神との出会いは、宗教史を、歴史を大きく変えていくことになります。

実はポケモンも一緒で、完璧な構築=神を求めれば求めるほど、人は苦しみの海に沈んでいくことになります。しかし、苦しみの先にのみ、ポケモン対戦の喜びがあるのです。神に近づかんとする苦しみ、意思、その願いのみが私達の歩みを進めさせてくれるのではないでしょうか。

 

6.神は死んだ

哲学者ニーチェの最も有名な言葉の一つです。

ニーチェの主張として、あらゆる宗教概念はルサンチマンなる弱者が作りだした妄想にすぎない、というものがあります。そしてルサンチマンの源流はユダヤ教と言い切っています。これについて少し説明しますね。ユダヤ人が最初に王国を築いたのは紀元前1021年のイスラエル王国。その後、強国エジプト王国と共存しながら、ダビデとその子ソロモンの治世で全盛期を迎えました。ところが、ソロモン王が死ぬと内部抗争が勃発。王国はイスラエル王国ユダ王国に分裂しました。

そしてここからユダヤ人の苦難が始まります。

まず紀元前597年、南方に位置するユダ王国が新興の新バビロニアに滅ぼされます。これによりユダヤ民族の支配階級が新バビロニアに連行されたのです。かの有名な「バビロン捕囚」はこれを指します。ただ、バビロン捕囚には副産物もありました。ユダヤ人が新バビロニアの優れた文化に接することが出来たのです。中でも重要なのがギルガメシュ叙事詩と言われていて、後にユダヤ人が編纂する「旧約聖書」に、ギルガメッシュ叙事詩を参考にしたと思われる部分が多く見受けられます。

バビロン捕囚から60年後、紀元前539年にアケメネス朝ペルシアが新バビロニアを滅ぼしました。当時ペルシアは異民族に寛大な態度を示していて、キュロス2世の命によりユダヤ人はエルサレムへの帰還することが許されます。その後にユダヤ人は旧約聖書ユダヤ教を成立させました。その旧約聖書の中に有名な「ノアの方舟」というエピソードがありますが、実はそれがギルガメシュ叙事詩の「ウトナピシュティムの洪水伝説」と酷似しているのです。バビロン捕囚がユダヤ教と関連性を持って語られるのは間違いではないでしょう。しかし、重要なのはそこではない。重要なのはイスラエル王国が滅亡し、強者と弱者が逆転したその時に、ユダヤ教が成立したという文脈です。その教義が「ユダヤ民族は選ばれた民。絶対神ヤハウェを信仰せよ、そうすれば神が敵対する民族をすべて滅ぼしてくれる」というものであるのは、考えさせる所がありますね。しかしまあ、神はユダヤ民族を救いはしませんでした。第二次世界大戦終了まで、ユダヤ人の迫害は続いたのですから。

そのユダヤ教の流れを汲むのがキリスト教であり、その物語は苦難の連続です。創始者イエス・キリストの受難から始まり、その後もローマ帝国の尋常でない迫害の数々。イエスゴルゴダの丘で手と足に釘を打ちつけられたときこう言ったといいます。

「父よ、かれらをお許しください。かれらは何をしているのかわからないのです」

ニーチェはこれを弱者の欺瞞と解釈しました。現実では勝つことのできない弱者が、精神世界での復讐のために創り出した価値観を、ニーチェは「僧侶的・道徳的価値観」と呼び、そしてこのような(露悪的な言い方をすれば)卑屈な負け惜しみをルサンチマンと名付けました。社会の成立に貢献した宗教的価値観、モラルを真っ向から否定する危険な思想と言えます。

ニーチェは神が死んだ後、人間がどう生きるべきかを現す言葉として、オーヴァーマン(超人)という思想を展開しました。欲望を真っ直ぐに実現させる人間〜みたいな感じです。まあでもその後ニーチェは妹に介護されながら死んだので、口だけじゃねえかとは思いますが。で、ここからが本番なんですが。

実はポケモン対戦も同じで、神は死んでるんですよね。ポケモン対戦をポケモン対戦たらしめる天のルール。暗黙の了解。そんなものはとうの昔に破綻をきたしているんです。テラスタルによる環境の複雑化は、あまりにも多くの矛盾を強いてきます。大切なのは、その神がいない世界でプレイヤーがどう矛盾なくあろうとするか、振舞おうとするか、その態度だと思います。違いますか!?(逆切れ)

 

という訳で…ポケモンバトルに役立つ警句を幾つかご紹介しました。この記事を未来の私が見た時にどう思うのかが気になります。